| 罰当たり ─宮沢賢治の『雨ニモマケズ』 Seibun Satow Aug, 31. 1991 「お前はもういざこざの外にいるんだ。お前にとって大切なものは何もない」。 フランソワ・トリュフォー『ピアニストを撃て』    宮沢賢治(一八九六─一九三三)の遺稿である『雨ニモマケズ』は彼の全作品の中で最も解釈がわかれ、論議の対象となっている作品である。『雨ニモマケズ』と賢治の他の詩や童話、評論との関係や全作品におけるその位置に関してだけでなく、そもそも手帖に書きとめられた『雨ニモマケズ』は賢治の死後発見されたのであり、果たして信頼のおける作品であるかどうかという議論も絡みあって、複雑な受容の歴史を形勢している。  こうした解釈が真っ向から対立した典型例は、谷川俊太郎の父である谷川徹三と中村稔との間で一九五〇年代に起こった論争、いわゆる『雨ニモマケズ』論争であろう。谷川は、『雨ニモマケズ』は「謙虚な願いと祈り」に溢れ、その言葉は「自分自身に言い聞かせる言葉」であり、「詩を超えたもの」と言ってよい『雨ニモマケズ』こそ賢治の全作品の中で最高傑作だと主張している。一方、中村は、古典的な修辞法に彩られた『雨ニモマケズ』は、農民運動の敗北の結果、「ふと書き落とした過失」のような作品であり、確かにそれが「ある異常な感動をさそうものをもっていることは否定できない」が、「賢治のあらゆる著作の中でもっとも、とるにたらぬ作品のひとつ」であると評している。  しかし、この論争は賢治の作品そのものをめぐってと言うよりも、作品を読むことを避けて行われたように思われる。二人とも伝記的な事実に依存しすぎていて、伝記的事実を詩の読解にまでおし広げ、最後にはそれを解釈にすりかえてしまうからである。谷川にしても、中村にしても、『雨ニモマケズ』が胸の病気で病床にあるときに書きとめられていることを解釈の前提とし、暗黙のうちに、そこを評価の最終的な基準にしている。この論争は、日本文学における多くの論争と同様に、建設的な結論に達していない。  この論争だけでなく、生前はほとんど無名の賢治に関する論文や評論、著作は今日ではかなりの量となっている。賢治をめぐる研究は、特に文献学的なレベルや交遊関係などの伝記的な事実検証のレベルにおいてはかなり進んでいるが、それに費やされた努力には敬意を払ってしかるべきであるものの、肝心の作品読解に関してはあまり成果が上がっていない。ユートピア論的な分析や存在論的分析、イデオロギー分析などさまざまな方法が用いられ、そこでいろいろな概念やタームが踊り、賢治の作品は解釈されている。確かに、文学史で用いられてきた術語外の対象指示のモデルに基づいた方法論は次世代の新たな読解を導く契機となったことは認められる。それは賢治の作品を世界的なコンテクストの中で論じる意義を示唆すると同時に、これまでの多くの日本の批評が追い求めてきた結論によるオリジナルティー──対象を通じて自己表現するという散文形態──だけでなく論理の展開そのものによるオリジナルティー──自己表現を禁じることによって表現するというパラドキシカルな散文形態──を顕在化したが、その手法はより伝統的な文学史上の諸問題の背後に潜む謎に近づくための一つの方策であって、むしろ、その新規参入以来われわれはこれまで以上に何の変質も蒙らない作品の独自性を相手にしている。  その中でも特に不毛なのは、賢治に『雨ニモマケズ』を詩作品として発表する意思があったかどうかという視点からこの作品について考察したり、議論したりしていることである。発表への意思と作品の読解は問題としてはまったく別の次元にあり、そうしたことは、フリードリヒ・ヘルダーリンの後期の詩のように「狂気の闇」の中に沈んでしまったときに書かれた詩の信頼性を確認する複雑かつデリケートなケースならばまだしも、最初から論議の対象とはなりえない。フランツ・カフカは『城』や『審判』、『アメリカ』などを抹殺して欲しいと望んでいたにもかかわらず、それを依頼された親友のマックス・ブロートはその意に反して、未完ながらも、発表している。カフカと同様、賢治自身も病床から父親に自分の原稿を焼却することを頼んだと言われているが、処分するならば、本人がするべきであって、彼の父親は賢治に対して焼却しないと告げている。死者に意思を行使する力は、芸術においては、まったくない。  ここで、賢治の『雨ニモマケズ』の全文を引用してみよう。   雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰテ 一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ    『雨ニモマケズ』はこのように、字句だけを見るならば、平易な詩であり、これほどまでに解釈が交錯しているのは不可思議ですらある。これは、おそらく、日本近代文学において高い評価を受けている詩の中で、表面的には、最も素朴な詩の一つであろう。にもかかわらず、ここまでその受容の歴史が複雑になってしまったのはなぜなのか。  日本近代文学において、最も賢治にこだわり続けている書き手の一人である吉本隆明は、『賢治文学におけるユートピア』(一九七八)において、『雨ニモマケズ』に関して次のように述べている。    「雨ニモマケズ」という晩年の病床の手帖に書きつけられた詩語は、現在では通俗的な反撥と帰順の言語として人々の手垢にまみれてしまった。わけても近代主義者の反撥と、言葉の〈無償〉なら大事にするが、行為の〈無償〉には関心を払わない超近代主義者の反撥によって眠らされてしまった。けれどもこの詩語には、宮沢賢治の過剰な思い込みや、願望の歪んだ構造の悲劇を排除したあとに、一種の難解さがのこされることは確かである。この難解さはかれの作品に自然感性と拮抗して繰返しあらわれる〈無償〉の構造の難解さと気脈を通じている。    『雨ニモマケズ』は極めて危うい。それが賢治を日本近代文学において最も難解な書き手の一人としている。表面的には、読み手を閉口させる人間の生の目的は道徳である、人間にとって本来の問題とはその道徳的ありようによって規定されるというきな臭さが漂っている。だが、注意深く読んでみると、何が善であるのか、そして善を目指すことこそが人間の生の目的であるという問いではなく、それではなぜその善が実現されることが困難であるのかという問いを『雨ニモマケズ』は含んでいる。『雨ニモマケズ』は、語句そのものは平易であるにもかかわらず、解釈が多様にわかれてしまうのは、「宮沢賢治の過剰な思い込みや、願望の歪んだ構造の悲劇を排除したあとに、一種の難解さ」が残っているからである。『雨ニモマケズ』が真に意味しているのは、労農主義的なイデオロギーや軍国主義的なイデオロギー、自己犠牲と奉仕の精神に基づいた道徳観、「死を間近に意識した賢治が来世を意識して、来世への思いを書きしるしたもの」(吉田和明『宮沢賢治』)でもない。  『雨ニモマケズ』に対する一般的に行われている仏教的な解釈は、世界を現象的な此岸の世界と認識不可能な本質的な彼岸の世界の二つにわけ、二元論的な問題系に所属しているにすぎない。それは、仏教的なのはその用語だけで、内容的には、牧口常三郎の例を見るまでもなく──柳田国男がその著作の序文を書き、創価学会を設立した牧口は法華経を新カント派哲学に基づいて解釈している──、イマヌエル・カントの現象と物自体の二分法による認識論の問題解決を復活させている。  カント哲学──特に、『実践理性批判』──では自由が道徳の究極的な問題となる。『雨ニモマケズ』に関するカント哲学に基づいた解釈は近代的な自由概念を中心的課題として扱っている。しかし、近代的な自由の問題は『雨ニモマケズ』には存在しない。賢治の作品から見れば、近代的な自由概念は抽象的すぎる。行為は賞賛や非難の対象となるのは自明のことであるとしても、この場合、その根拠が問われることになるが、その行為の源泉は主体を離れたところ──成長の環境や自然など──にあり、主体は自由ではない。近代的な自由概念を自明の前提としているものは賢治の作品の世界に窮屈さや消極性を感じざるを得ない。賢治の作品はこれまで抽象的に解釈されすぎている。賢治の作品が難解であるのはそれの描いている世界が、近代認識論に基づいた概念と比べて、はるかに具体的だからである。賢治の作品には必然性の認識があるけれども、この必然性の中には自由も罪も入りこむ余地はない。この具体的な世界から見れば、自由も罪も抽象的な近代法的なものでしかない。  カントの言うように、道徳が自由に基づくとすれば、道徳を欲しないこともまた自由であるというサド的なアイロニーをそれは反駁することができない。カント的なリゴリズムに基づく谷川徹三は、彼の息子谷川俊太郎の『宙ぶらりん』における「なにがなんでも生きのびなくてはならない というのがひとつの真理であるとすると いますぐ滅亡してもかまわないというのも いっぽうの真理であってその中間で われわれはネクタイに首をつっこんでいる」というアイロニカルな主張に反駁できない(この俊太郎の二律背反はカント自身が『純粋理性批判』で提唱し ている)。だが、賢治の作品はこの馬鹿馬鹿しい堂々めぐりの外にある。『雨ニモマケズ』が描いているのは、不屈の精神を持って誘惑や苦痛と戦い、自己主張を貫こうとする人間像ではなく、誘惑や苦痛に対する激情を言葉によって治療的に扱おうとする人間像である。  吉本は、同じ作品において、そうした伝統的な読解に対して、この詩を次のように解釈している。    はじめに「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という個処がすこし難解である。言葉そのものが難解だというのではなく、聡明な判断力、理解力、記憶力といったものをたくさんのなかから撰択していることが難解なのだ。この難解さをすりぬけるひとつの方法は、これを現代詩の詩的な修辞法とみなすことである。いいかえればことさらささいな事柄を撰んで記述することによってある拒否や無化や皮肉の意識を空白によって表出したいための詩的な修辞の一種とみなすことである。そしてこうみなしてよい部分がかなりあるのではないかという気がする。けれど判断力、理解力、記憶力にたいする特別な趣向は、景観をみる視線にたいする執着とおなじに特異な印象をあたえる。するとかれが好んだ〈察知〉の能力(あるいは超能力)の強調に結びつけたいようにかんがえられてくる。するとかなり正解に近いところにゆきつけるような気がする。  たぶんかれは「法華経」のなかに描かれた如来の属性から着想された。じぶんは無であり遍在しながらすべての事象と人間の心の動きを識りつくし理解することができるもの、その原理ということを、資質や性格や個性という次元から架橋する願望をかれは詩語にしてみたかった。そして資質や性格や個性から究極へ架橋することの矛盾というところに作品はかかわっていたのである。    「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」は、ロマンティック・アイロニーなどのレトリックと見なさなくとも、吉本が言うように、思いのほか難解である。しかし、「聡明な判断力、理解力、記憶力といったものをたくさんのなかかから撰択していること」が決してわかりにくいわけではない。『雨ニモマケズ』のこのフレーズの難解さの理由を「判断力、理解力、記憶力」に立脚する立場は、人間主体が自然客体から分離し、主=客関係の成立によって、「景観をみる視線にたいする執着」という主体の客体への支配を獲得する伝統的西欧形而上学的な理性の立場のことであるし、そもそも「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」を考慮する限り、そうした諸力の選択・行使に限定することはできない。吉本の主張は、賢治にヘーゲル的な認識を見出したことから生じている。それは、「労働」と「教養」を深くつんで、判断力、理解力、記憶力などを高めて認識を深め、自分が個人的な欲望としてではなく、社会的な存在として責任をもって生きるのがよいという必然をわかることこそ大切だと主張する『法の哲学』などに見られる倫理観である。こうした認識は主観的な精神を発展させて客観的な精神と一致させ、最終的には絶対精神に達することを目的としている。吉本は『雨ニモマケズ』に対して一般的に行われているカント的な問題系に基づく読解から一歩踏み出し、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」を「じぶんは無であり遍在しながら」と弁証法的に解釈している。彼は『雨ニモマケズ』を、自分の存在の空虚性を顕在化させたものと指摘した上で、主観=客観や概念=事物の相互依存性・相互規定性・相互否定性・相互浸透性の運動から把えている。確かに、冒頭部分で(「カツ」ではなく)「マケズ」という否定弁証法的に展開されていることは否定できないけれども、賢治は「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」と言っているのであって、自己の存在を無であるなどとは口にしていない。「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」と賢治が語るとき、それは前方に向かう主体の運動や主観と客観の一致を目指していることを表明してはいない。  「〈察知〉の能力(あるいは超能力)」のようないつもの独自の用語と論理展開によって、吉本は『雨ニモマケズ』と法華経からの影響と関連を、この作品だけでなく他の著作でも、論じているが、法華経からの影響が実証されたとしても、それは重要ではない──確かに、その読解に費やされた吉本の知的な労力とそれに基づく主張は迫力と呼んでもいいような説得力を持っていることは否定できないけれども。と言うのも、何からの影響といったものは作品読解の周辺部分にすぎず、真に大切なのは賢治の作品において体現されているのはいったい何であるのかだからである。影響の物語を構築してしまうとき、賢治を強いた問題意識を隠蔽してしまう。仏教から賢治の作品をふりかえることによって、そこにある難解さは決して解消しない。  柄谷行人は、『反動的文学者』(一九七八)において、吉本の解釈を用いながら、『雨ニモマケズ』の「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」を次のように分析している。    私はそこで考えてしまった。「自分の感情に入れずに」であれば、意味はよくわかるが、「自分を勘定に入れずに」だと、よくわからないのだ。よく似ているようにみえるが、後者はむしろ前者の反対なのである。『本居宜長』における小林秀雄の流儀でいえば、前者は現代の科学者で、後者は宜長のような学者ということになるかもしれない。しかし、そういうと味気なくなってしまう。「アラユルコトヲ……」という詩句(これだけではないが)は、思いのほか難解なのだ。(略)  この詩にある道徳臭に反撥しても、なおその底にあいまいなものが残っている。賢治はつねに宗教的イデオロギーに落ちこみかねないところにいたとしても、けっしてそれに還元されない認識をもつ。    柄谷はこのエッセー以外で賢治について言及することはなく、必ずしも彼にこだわりを持っているわけではないが、過剰な思いいれがない分、むしろ、適格に意味論的な指摘をしている。柄谷は、吉本が「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」に解釈のウエイトを置いたのに対して、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」のほうに難解さを見出している。「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」は「自分の感情に入れずに」ではなく、「自分を勘定に入れずに」である。柄谷が指摘しているように、「自分の感情に入れずに」が主観=客観という図式を前提にした近代認識論的であるのに対して、「自分を勘定に入れずに」という賢治の作品には近代認識論的な主体が存在していない。とは言っても、このフレーズは、古代ギリシアにおいて存在論の客観性は予言や神託という形をとっていた以上、存在論的であると明確に規定できるわけでもない。道徳的なるものと反道徳的なるもの、宗教的イデオロギーと反宗教的イデオロギーを同時に見るような両面的な認識を賢治の作品は保持している。彼の作品は近代認識論的な遠近法に限定されていないため、そうした両義的な認識を所有しており、解釈が多様になる。谷川徹三は、彼の評論『雨ニモマケズ』において、賢治をレフ・トルストイと比較しているが、トルストイにとって、『アンナ・カレーニナ』を代表に近代的自我の問題に触れているのに対して、賢治はそうした組みに所属していないのだから、谷川の企ては最初から無謀だと言うほかない。賢治の作品の「ワタシ」は近代的な自我ではなく、「ミンナニデクノボートヨバレ」と述べているように、何かしらの関係性の現われとして考えている。『雨ニモマケズ』は自己を語っているが、告白の詩ではない。「ワタシ」は告白の対象になり得ない。それは告白している当の「ワタシ」を問いとしている。「ワタシ」はある歴史的状況や環境によって形成される自我ではなく、ある精神の形態である。谷川や中村、吉本を含めて、『雨ニモマケズ』に関する多くの批評は近代認識論に基づいた図式を用いて解釈しているため、その真の問題点を把握することができない。特に、吉本隆明は、全般的に彼の批評や哲学に言えることだが、近代認識論以前の思想を──仏教思想も近代認識論以前の思想であるにもかかわらず──近代認識論的に再構成している。しかし、そうしたとき、近代認識論以前の思想が持つ成熟を切り捨てることになってしまう。吉本は、労作『宮沢賢治』(一九八九)において、賢治の作品に修辞学的・文献学的アプローチを意欲的に試みて、主観=客観の近代認識論的図式が成立していないことを適確に指摘していながら、そこでもやはり理想主義的なロマン主義の功罪というような近代認識論的解釈に回帰し、その認識をくもらせてしまっている。  賢治の作品は近代認識論の枠組みにおさまっておらず、その難解さの一つは近代認識論との差異にある。賢治の作品は奥行きを感じさせず、統語法も、主観と客観の区別に先立って、自己の内部と外部が交錯する表現形式を持っている。こうした賢治の詩の独自性は、近代認識論的な主観=客観の図式に基づいた遠近法を前提とした詩と比較すれば、明確になろう。  高村光太郎の『道程』(一九一四)はそうした近代認識論的な遠近法に基づいた典型的な詩である。   僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ、自然よ 父よ 僕を一人立ちにさせた広大な父よ 僕から目を離さないで守る事をせよ 常に父の気魄を僕に充たせよ この遠い道程のため この遠い道程のため    人生を一本の道に比喩たこの詩は用語だけでなく、主題も平易であり、『雨ニモマケズ』と比較すると、「広大」や「遠い」という言葉が用いられているように、はるかに近代遠近法をイメージさせる。『道程』において、「僕」は主体であり、それが世界に対するパースペクティヴの消失点となっている。「僕」という主観は「父」という客観によって保証され、「僕」であることは揺らぐことなく、視線はつねに「僕」から一方的に発せられて、世界は「僕」によって還元されるのである。「僕」にとっての世界は、現象としてあるという存在の世界とかくあるべきだという当為の世界の二つに区分され、「僕」の格率が、命令法を用いているように、同時に普遍的立法の原理として妥当する。過去や現在といった時間は主体の経験の発展であって、「僕」と「父」との一致の達成を匂わせるような未来は暗示されるにとどまり、描かれている時間や空間は系統樹的に等質的・連続的である。このように『道程』には自己の内部と外部を同時に見る両義性はない。  賢治の作品が難解なのは、そこに潜んでいる思想が深遠だからでも複雑だからでも抽象的だからでもなく、なれ親しみ規定されている近代認識論的な二元論に基づいた世界への違和を描いているからである。『雨ニモマケズ』に関する解釈が極端にわかれるのは、内部からのと外部からの視線が交錯しているからであって、谷川徹三の解釈はこの内部からの視線だけを、中村稔の解釈は外部からの視線だけを一義的にとらえているにすぎない。  『雨ニモマケズ』におけるその両面性はさらに独自の倫理を編み出している。『雨ニモマケズ』から谷川や中村が解釈した倫理は、賢治のそれと言うよりは、武者小路実篤などのフラットなヒューマニズムである。彼らが思っている以上に、『雨ニモマケズ』は、武者小路の作品と違って、現実や自己の諸矛盾を抱えこめるだけのヒダを持っている。その体現している倫理は、日本近代文学において、他に類を見ない。『雨ニモマケズ』はリゴリスティックにあるいは定言命法的(汝……なすべし)に倫理を主張しておらず、倫理は諸矛盾──「雨」や「風」、「雪」、「夏ノ暑サ」、「病気」、「ツカレ」、「死」、「ケンクヮヤソシヨウ」、「ヒデリ」、「サムサノナツ」──の肯定として表われている。それは「謙虚な願いや祈り」と言うよりも、むしろ、いかなる不安や不幸にあったとしても、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」と述べているように、それをそのままに受けとめ、自分の現在に満足し、他人に対してではなく自分自身に恥じることを学んで、心の安静を得て幸福に至る倫理にほかならない。「決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰテ 一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と言う『雨ニモマケズ』が表わしているのは、「一杯の水と一切れのパンとがあれば、幸福においてゼウスに負けない」と言ったエピクロス的な快楽主義である。   エピクロスは紀元前三四一年にギリシアの最前線基地のあったサモス島に生まれ、紀元前二七〇年にアテネで入浴中に亡くなったとされている。前三〇五年から死ぬまでの三十六年間、アテネに「エピクロスの園」という学校を開き、そこで社会でのわずらわしさを避けて、人々から離れて静かに「隠れて生きる」ことをモットーに、弟子たちとの共同生活をしている。「エピクロスの園」においては、世俗的な利害や野心から離れて、こころの安静を得た人々が、奴隷も娼婦もわけへだてなく、簡素な生活をしていたという。『物体の本性』を著したルクレティウス(前九九頃─前五五頃)はエピクロス学派の代表的な哲学的詩人である。  ミロのヴィーナス像や瀕死のガリア人像、ラオコーン像といった優れた彫刻芸術を輩出し、ドイツの歴史家ヨハン・グスタフ・ドロイゼンの命名した「ヘレニズム」に関する専門家の見解は揺れ動いている。ある支配的な学説が、すぐに間違いだったと別の学説が覇権を握る状態である。アレキサンダー大王の東方遠征(前三三四─前三三二年)が行われ、バビロンでの彼の死後、ディアドコイの争いが始まり、イプソスの戦いのあった前三〇一年にはアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの三国分立に至る。平面幾何学を大成したユークリッドや浮体の原理を発見したアルキメデス、地球の公転・自転や太陽中心説を唱えたアリスタルコス、地球球体説を主張し地球の円周を計算したエラトステネス、神経系統や脈搏を医学において重視し臨床医学の祖と呼ばれるヘロフィロスといった自然科学の分野において卓越した功績を残したものが登場している。エピクロスの快楽主義はこうした自然科学の隆盛と政治体制の激動が混在する時代に生まれている。  エピクロスの快楽主義はそれ単独ではなく、ゼノンに代表される禁欲主義との比較・対立によって語られることが多い。ゼノンにしても、エピクロスにしても、近代認識論的な主体の概念と無縁であり、二人とも生の目的を「幸福」としたことは共通しているが、その内容は異なっている。エピクロスが快楽的な「アタラクシア(ataraxia)」、すなわち「煩いなきこと」を主張したのに対して、ゼノンは禁欲的な「アパテイア(apatheia)」、すなわち「情念なきこと」を主張する。  賢治の『雨ニモマケズ』は、一見したところでは、エピクロスの快楽主義よりも、ゼノンらの禁欲主義に近いように見受けられる。しかし、『雨ニモマケズ』の体現している思想は、「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」から見ても、脱感情的なゼノンの「アパテイア」とはあいいれないし、賢治は、「イツモシヅカニワラツテヰテ」と述べているように、禁欲しなければならぬとか苦悩しなければならぬと言っているのではない。『雨ニモマケズ』は、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」ということを理想にしていることから、ストア学派と違って、必ずしも理性を重視していないし、理性を共通の媒介とするコスモポリタニズムを目指してもいない。また、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」と言っているように、『雨ニモマケズ』は自己抑制と言うよりも、こころの安静を得るために私見を払いのける考量を重視している。さらに、『雨ニモマケズ』は理性に従うのではなく、自分自身に対してはばかりを覚えること、すなわち悪いことをしないようになすべきではなく、「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」とあるが如く、それを欲しないということを表わしている。  以上から、『雨ニモマケズ』の思想はストア学派のそれと異なっていることは明らかであろう。  ここでエピクロスの快楽主義について説明しておこう。  美食家を意味するエピキュリアンとしてエピクロスの徒は一般的には知られているが、その哲学の内容はあまりよく認知されてはいない。エピクロスは、一冊の本も生き残れなかったゼノンに比べて、はるかに多い分量の作品──『自然について』や『ヘロドトスへの書簡』、『ピュトクレスへの書簡』、『メノイケウスへの書簡』、『主要教説集』、『センテンティアエ・ヴァティカノエ』──を残している。しかし、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』の伝えるところによれば、三百冊もあったとされる著作の大部分は消失している。  ただ、忘れてならないのは、エピクロスの哲学は、ゼノンのそれと同様に、ポリス社会が崩壊し、一切の精神的な拠り所がなくなり、人々が荒野に放り出された時代の哲学だという点である。ゼノンにしても、エピクロスにしても、彼らは戦争や政治体制の変化という現実に追いつめられて生きていた。 スコレーを貴んだソクラテスやプラトンらが自らの思想の基盤にしていたポリスは彼らの目の前から消える。彼らが求めていたものは必要に迫られた実質的なものだけである。彼らの思想はそうしたひきしぼられたところから発せられたものにほかならず、それには不必要な剰余物が混入する余地がない。ヘレニズム思想は決して安定期の自己の生活習慣の正当化ではなく、激動の中でどう生きるかを模索している。  エピクロスは生の目的は幸福であり、それが快楽であるとする。快楽が最高善で、苦痛は最高悪である。「味覚による快、性愛による快、音楽を聞いて得る快、踊る美女を見て得る快、これらを除いたら、何を善と考えたらよいのか私にはわからない」。あらゆる善の基礎は快楽にあるというわけだ。「肉体の叫びは、飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと」であり、「胃の腑の快はすべての善の始めで根であり、知や文化もこの快楽を参考にする」。しかし、彼の言う快楽は刹那的・享楽的なものではない。と言うのも、快楽自身は決して悪いものではないが、刹那的・享楽的なそれは、後になって、飲みすぎが二日酔いを起こしてしまうように、逆に煩いや不快を残すものだからである。  エピクロスは、『メノイケウスへの書簡』において、快楽を次のように述べている。    それゆえ快楽が生の目的であると言う場合、われわれの意味する快楽は(われわれの言う快楽の何たるかを)、知らない人びとや、知っていても、それに同意しないか、もしくは、それを間違って解釈している人びとが考えているような、放蕩者の快楽や肉体の享楽のうちに見いだされる快楽ではなくして、じつは、肉体において苦痛を感じもしなければ、魂において煩わされることもない、ということなのです。なぜなら、快い生を生み出すものは、ひっきりなしに酒を飲んで、陽気に騒ぐこともなければ、少年や少女をはべらせたり、魚肉とか、その他ぜいたくな食卓に現われる数々の珍味を口にして、享楽にふけることでもなく、むしろ、しらふの考量が、つまり、あらゆる行為の選択と回避の原因を探り出し、そして魂を最大の迷いのとりことする因をなすさまざまな臆見を、魂から追い出すところの考量が、それを生み出すのだからです。    エピクロスの求める快楽は、一生涯永続的に続くものである。それは肉体に苦痛がなく、精神に不安がなく、いかなることに直面してもこころの乱されることのない安らかな状態である精神的快楽、すなわちアタラクシアである。  それに到達することを妨げるのは、欲望であり、または、迷信や死、神に対する恐怖である。  エピクロスは、『断片』で、欲望と快楽の関係について次のように述べている。    君にとっては、黄金の寝床や豊かな食卓を持って心配に満ちているよりも、わら布団の上に横たわって恐怖から自由である方がよりよいことだ。    富とか名誉というような生存に直接的に関係のない便宜的な欲望は捨て、生存に必要な自然的な欲望のみを最小限度に満たす節制と、快楽を計算し選択する思慮とを会得しなければならない。大切なのは快楽への身の処し方にほかならない。  また、エピクロスによると、死は肉体を形成する原子の離散にほかならず、魂は肉体の消滅とともに消えるということを知り、死はまったく恐ろしいものではないということを人は認識しなければならない。そうしたとき、初めて、欲望や死の恐怖によって乱されることのない心の安静を得ることができるのである。エピクロスの哲学は「苦痛との闘い」を表明していると要約できよう。ゼノンと違って、エピクロスの快楽主義は罪を悔いることではなく、罰は苦しいものだからなるべく避けるようにしながらも、もしかりに罰がくだってしまったなら、その罰を甘んじて受け、その下でさえも心静かにいる状態を説いている。「きびしい苦痛は短期間のものであるし、長期間の苦痛の場合にはその間に快楽が苦痛よりも多いこともあるのだから、不可避な病苦も重視しなくてもよい」。  以上から、『雨ニモマケズ』がこうしたエピクロス的な快楽主義──「苦痛との闘い」──を帯びていることは明白であろう。さまざまな物欲に悩まされず、惨めで不幸にある人々の生活の苦しみをよく考えることは、いっそう多くを望んで他人を妬んだり羨ましく思ったりすることがなくなるから、大切であるというエピクロスの主張は、あたかも『雨ニモマケズ』の解説のようである。  余談ながら、古典は、精神衛生上、好ましい。そこには新しい情報はないが、その代わりに、創造的な試みをしようとするとき、その力を与えてくれる。新しい情報はしばしば疲労させる。情報は即効的に働くが、その効力は長続きせず、ペースを乱す。一方、古典はゆっくりと効いてくる。いい作品をつくるには、十分に、寝かせて、発酵させ、熟成させなければならない。安物買いの銭失いという常套句は、本にも言える。場面にもよるが、手軽に楽しむときには、それなりのものを手にするけれども、じっくりと味わいたいときには、手間隙をかけてつくったものを選びたい。いいものになれたものは、そのレベルをなかなか落とせないものである。  冒頭の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ」は自然や身体の条件を超えることはできず、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」は「しらふの考量」、すなわち「あらゆる行為の選択と回避の原因を探り出し、そして魂を最大の迷いのとりことする因をなすさまざまな臆見を、魂から追い出すところの考量」を意味している。病気になったり、年をとったり、死を迎えたり、情念にかられて争いをしたりするという事態は、いつでも、誰にでも起こり得ることである。また、日照りや冷夏、雨、風、雪、暑さといった自然のもたらすものは人間によって完全には克服することはできない。人間にできることは、それに負けぬ身体を持って、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」といったことを知ること、すなわち精神=知性の働きを使い、「欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰテ」そして「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」という状態になるだけである。しかし、幸福はそうしたこころや魂の安静にこそある。さらに、見逃してはならないのは、賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」と言っている点である。こうした言葉を吐くこととアタラクシアを獲得した状態と矛盾しない。賢治がストイックであるならば、この言葉を書かなかったに違いない。我慢することや自己抑制をすることは苦痛をもたらす。「ナミダヲナガシ」たいのなら、「ナミダヲナガ」せばよい。「オロオロ」したいのなら、「オロオロ」すればよい。もしそうすることによって、心穏やかになれるのなら。賢治は、『雨ニモマケズ』において、情念を克服することではなく、もし情念にとらわれたなら、その自分の情念を見つめることの大切さを告げている。  人は、生きているとき、快楽を求めるよりも苦痛を避けることのほうに精神的努力を払っている。現実は快楽よりも苦痛のほうをはるかに多く用意しているため、人間は快楽を求められずにいる。禁欲主義は、苦痛を減らすことをしてくれるものに対して、自らの快楽を捧げてしまう危険性がある。快楽を感受しようとする心の動きは、往々にして、苦痛を減らし現実を受けいれて協調的な行動をとらなければならないとする精神のある活動と葛藤を引き起こしてしまう。人間の精神は苦痛を減らし、安定状態を求めると、今より前の状態に退行してしまう恐れがある。苦痛のないことがすべて快楽であるとすれば、死は苦痛のないことである以上、死も快楽となり、自殺することが快楽主義の目的となってしまう。しかし、死は、感情や感覚を排除している以上、真の快楽ではない。苦痛なく意識を持って生きることが快楽主義者の求める真の快楽である。禁欲主義のような苦痛を減らすために快楽を犠牲にすることなく、すすんで快楽を求めようとすることが真の快楽主義である。  『雨ニモマケズ』がエピクロス的な快楽主義を表わしているからと言っても、賢治の他の作品にまでその認識を広げられ得るかは、論議の余地がある。賢治の作品の中にはヘルダーリンやウィリアム・ワーズワースの詩の世界に極めて類似したものもある。賢治の科学概念は近代認識論的ではなく、古代ギリシア──特に、エンペドクレス──やヘレニズム的であることは認められるにしても、作品は多様な可能性を持っており、エピクロス的な快楽主義による解釈だけに限定すべきではない。そもそも賢治が、クロード・レヴィ=ストロースのように、数学や地質学に関心を持ち続けたということすらも十分に考えられていない状態なのだから。ただ、賢治の全作品が近代認識論に対する違和において共通していることは確かである。  とは言うものの、「そういうと味気なくなってしまう」。   自分の理想を「デクノボー」に譬えることには悲哀が漂う。この言葉は、『雨ニモマケズ』において、最も目をひく。これはかなり強烈であって、謙虚と言うよりは、はるかに孤独、ぞっとするような孤独をイメージさせる。生きる動機も根拠も理由も意味も何もない「デクノボー」は何ものをも持っていないが、何かが失われることもない。「デクノボー」たることは無力であり、何かを実践できることはまったくない。けれども、その代わりに他人を支配することもない。「デクノボー」の比喩は人間の力で解決できない不条理で非合理なものによって打倒されてしまうことではなく、さまざまなことによって悩まざるを得ないが、にもかかわらず、その下でさえも心静かに強く生きていくのだということを表わしている。賢治が可能なのはただ知ることだけという「デクノボー」を「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と選びとることを表明するのは、人間の禍を是認するからである。「デクノボー」とは知者、それも罰のくだった知者であり、『雨ニモマケズ』を生み出しているのは罰の意識にほかならない。  さらに、賢治が「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と告げるとき、それは諦念や怨恨、呪詛を意味しているのではない。賢治は自分の生き方やその満足=不満を一般的な評価から判断するのではなく、その価値基準を自らの意欲に置いている。このような意欲重視は現実や現世に対するたんなる是認を超えた肯定である。すべての超越的な意味や目的を拒否することによって、人は個々の生の内的な価値を創造することができる。「ワタシ」は静的な在るところのものではない。「ワタシ」を「デクノボー」と呼ぶものは意味と価値を自分の行為そのものから創り出すのではなく、意味と価値を反動として受けとっているにすぎない。「デクノボー」は強い自己認識を持った実存のモデルである。「美はどこにあるか。わたしがいっさいの意志をあげて意欲せざるを得なくなった時と場合とにある。形象がたんに形象として終わらないように、愛し、没落することをわたしが欲するようになったところにある」(フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストゥラはかく語りき』)。「デクノボー」は超越的な意味や価値の喪失に耐えつつ、新しい価値や意味の創出に対しては、己の没落や罰すらも欲する。「ワタシ」とは「ワタシ」になろうとする「ワタシ」自身のことである。  『雨ニモマケズ』とほぼ同じ時期に書かれたと思われる遺稿『眼にて云ふ』が罰の意識を、『雨ニモマケズ』以上に、明確に表現している。   だめでせう とまりませんな かぶかぶ湧いてゐるですからな ゆうべからねむらず 血も出つゞけなもんですから そこらは青くしんしんとして どうも間もなく死にさうです けれどもなんといい風でせう もう清明が近いので もみぢの嫩芽と毛のやうな花に 秋草のやうな波を立て あんなに青空から もりあがって湧くやうに きれいな風がくるですな あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが 黒いフロツクコートを召して こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば これで死んでもまづは文句もありません 血がでてゐるにかかはらず こんなにのんきで苦しくないのは 魂魄なかばからだをはなれたのですかな たゞどうも血のために それを言へないのがひどいのです あなたの方から見ると ずいぶんさんたんたるけしきでせうが わたくしから見えるのは やつぱりきれいな青ぞらと すきとおつた風ばかりです    吉本は『雨ニモマケズ』にロマン主義以降の詩によく見られる修辞性を認めているが、むしろ、『眼にて云ふ』のほうがそれに富んでいる。賢治の作品は通常『眼にて云ふ』のように修辞性に覆われているが、『雨ニモマケズ』は、対句は使用されているものの、レトリックは形式的構成の領域にとどまっており、顕著に表われてはいない。けれども、『眼にて云ふ』のほうが、『雨ニモマケズ』よりもその意味するものを把えやすい。  この詩の語り手も、「デクノボー」と同様に、無力であり、何ものをもなし得ないが、『眼にて云ふ』は自虐的でも自嘲的でもまったくなく、それはエピクロスの言う「何よりも、肉体に苦しみなく魂が平静」であるアタラクシアを獲得した状態を表わしている。このこころの安静は、評論『雨ニモマケズ』において谷川の言うようなロマン主義的な「深い信仰心と自然の風物に対するいつでも溌剌とした感受性」からきているのではない。語り手は「黒いフロツクコート」を召して、自分を介護してくれている人間、そしてその意欲に対して、「こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば これで死んでもまづは文句もありません」と感謝している以上、彼は自然の風景に安息しているわけでも、信仰に救いを見出しているわけでもない。『眼にて云ふ』が告げているのは、谷川の指摘するそうした抽象的な問題ではなく、晴々とした人生に対する肯定であり、是認であり、満足である。谷川は原因と結果をすり替えている。この語り手は「きれいな青ぞら」と「すきとおつた風」を見たからこころ穏やかなのではなく、こころ穏やかであったからこそ、「やつぱりきれいな青ぞらと すきとおつた風ばかりです」と最後に言う。血を吹きあげながら、梶井基次郎の『のんきな患者』のごとく、「こんなにのんきで苦しく」なく、「やつぱりきれいな青ぞらと すきとおつた風ばかりです」と口にするあたりはユーモアすら感じさせる。と言うよりは、ユーモアは、ジクムント・フロイトが『ユーモア』において述べているように、こうした罰をくだされてしまったものがギリギリのところから発するものなのだ。ヘンリー八世の個人的な怒りに触れた『ユートピア』の著者トマス・モア卿が、一五三五年、処刑寸前に次のように言ったことがユーモアである。「余の髭に気をつけてくれ。首きり役。余は首を切られることにはなっておるが、髭を切ることにはなっておらんのだから」。  この『眼にて云ふ』という詩には明るく透き通った笑いを呼び起こす要素はあるが、陰気に解釈させるような要素はまったくない 。  本当の悲しさは涙によってではなく、笑いによってしか救いようがない。ユーモアの笑いとは絶望や悲しみのどん底から発せられるものであるが、フロイトが述べているように、ユーモアを理解できない人もまたいる。絶望や悲しみが足りないものたちが賢治を扱ってきたと考えざるを得ない。  賢治の悲しみや絶望が、はるかに深いものだということは、次の二つの詩が語っているであろう。   けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ    (あめゆじゅとてちてけんじや) うすあかくいつそう陰惨な雲から みぞれはびちよびちよふつてくる。 (『永訣の朝』)   おまへの頬の けれども なんといふけふのうつくしさよ わたくしは緑のかやのうへにも この新鮮な松のえだをおかう いまに雫もおちるだろうし そら さはやかな terpentineの匂ひもするだらう。 (『松の針』)    これらは最愛の妹を亡くすことを詩としたものであるが、情緒的な表現は見られない。しかし、透き通った明るさが、むしろ、彼の悲しみの大きさを感じさせる。と同時に、それは自ら慰め、励まし、救っている。賢治の作品は、いかなる悲劇的な場面においても、笑いを帯び、その状況を笑い飛ばしてしまう。  補足であるが、賢治の方言を読む際に、特に濁音に関して、注意が必要である。花巻の方言は、非常に、濁音を弱く発音する。「ど」であれば「ベッド」の「ド」くらいに、「ず」の場合は「グッズ」の「ズ」程度に、常に弱く発音する。花巻の方言を読むときは、濁音を弱く、全体的に、柔らかく、高音を意識しつつ、発音する必要がある。中国人の方が、むしろ、花巻出身者以外の日本人よりも賢治の方言をうまく読むだろう。  彼の作品のユーモラスな要素は賢治が自分を突き放して考えていることから生じている。かりに彼らのように伝記的事実を賢治の詩の読解に導入したとしても、彼らの引き出すような結論は出てこない。賢治は自分の持つ論理や倫理とはまったく異なった農民たちのことを考えていたが、彼を理解するものは皆無と言ってもよい状態で、つねに突き放されて生きざるを得ない。解釈者の多くは賢治の作品を自分の世界に没入しきっている私小説的な世界と混同しているのであって、そう読んだとき、彼の作品からユーモアは消失してしまう。しかし、そうした解釈は、賢治は自分を没入しようにもする場がなかったわけだから、あまりにも不当であろう。  ファルス的な精神の提唱者であると同時に、ゴーダマ・シッタルダと同様、苦行を捨てた坂口安吾は、『教祖の文学』(一九四六)において、賢治の「素朴きわまる詩」である『眼にて云ふ』を引用して、賢治の作品にある精神を次のように言っている。    半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当たりの話だけれども、徒然草の作者が見えすぎる不動の目で書いたというものの実相と、この罰当たりが血をふきあげながら見た青空と風と、まるで品物が違うのだ。  思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目。そんな目は節穴みたいなものでものの死相しか見ていやしない。つまり小林(引用者註 小林秀雄のこと)の必然という化け物だけしか見えやしない。平家物語の作者が見たという月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいうそんな月がいったいそんなステキな月か。平家物語なんてものが第一級の文章だなんて、バカも休み休み言いたまえ。あんなものに心の動かぬ我々が罰が当たっているのだとは阿呆らしい。  ほんとうに人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰に当たった奴でなければ、書けないものだ。思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目などには、宮沢賢治の見た青空やすきとおった風などは見ることができないのである。    これまでに山のように書かれてきた批評や読解以上に、安吾こそこのわずかな言葉の中で、むしろ、賢治の作品の底流をつかんでいる。賢治の詩の難解さはこうした「罰当たり」を書いたところにある。中学生だった長嶋茂雄は「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」を「雨ヲタノシミ 雪ヲヨロコブ」と読み替えている。賢治の読者は長嶋を見習うべきである。長嶋は、中学生の段階で、完璧に賢治を理解している。日本の近代文学において、これまで罪を書いてきた作品──自然主義文学や私小説など──はあったが、罰を書いてきた作品は極めて稀である。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が今まで誤読されてきたのは、それが罪ではなく罰を書いてきたからである。谷川にしろ、中村にしろ、吉本にしろ、多くの解釈は賢治の作品を罪の側面から読もうとしていた。しかし、賢治の作品は罰の下でいかに生きるかを考え、表現している。  ただし、賢治の罰はロマン主義的な内面性を意味していない。それは、賢治がロマン主義者特有の告白や自伝を書かなかったことからも、明らかである。賢治は、古代ギリシアの哲学者たちが同時に自然科学者であったように、文学者であると同時に農学を化学から理解するなどの視点を持った自然科学者でもある。農業をあくまでも肥料設計から始めるという観点を所持していた賢治の罰は、彼自身、すぐれた批評である『農民芸術概論』において、「リアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する」と書いているように、ロマン主義によってのみ再構成されたものではないのだ。賢治の作品を内面性の問題として解釈するのは、「誤まれる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る」(同)という賢治の認識を顧みていない。と言っても、このあてられた罰はキリスト教神学的な堕罪による受動的な罰ではない。それは、むしろ、「デクノボー」を選びとるということが告げるように、能動的な罰だ。賢治は下ってしまった罰を負い目としたり良心の疚しさとするのではなく、『農民芸術概論』で「詩人は苦痛をも享受する」と述べている通り、好ましいものとしてとらえなおしている。賢治は聖者と呼ばれるよりも、はるかに道化と見なされるのを欲している。「……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ『それだからこそ』──なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだから──わたしの語るところのものは真理なのだ──しかし、わたしの真理は恐ろしい。なぜならこれまで真理と呼ばれてきたものは嘘なのだから。──一切の価値の価値転換、これが、人類の最高の自覚という行為をあらわすためのわたしの命名である」(ニーチェ『この人を見よ』)。「デクノボー」は「一個の道化」である。それを「聖者」と認識するのは誤謬にすぎない。「笑いはその正体が明かされるには、掛け値なしに一五〇頁の論文を要求し、それにその論文はアカデミーの文体ではなしに化学の文体で書かれなければならぬ」(スタンダール『ラシーヌとシェークスピア』)。バラモン至上主義に異議を唱える沙門に、自分がそうすればシャカ族の国が滅亡してしまうのを承知の上で、おまけに妻子を捨てて出家しておきながら苦行から脱落してしまったゴーダマ・シッタルダは、バラモン教から見ても、沙門から見ても、シャカ一族から見ても、堕落した救いようのない「罰当たり」だ。しかし、彼は「罰当たり」を「負い目」とすることなく、すなわち自己憐憫や自己嫌悪に陥ることなく、能動的な価値を持つものとして転換してみせる。賢治を解釈する際に仏教を使いたいのなら、ここで使うべきである。  賢治は、『手紙 二』において、次のような転倒を書いている。   印度のガンヂス河はあるとき、水が増して烈しく流れてゐました。 それを見てゐる沢山の群衆の中に、尊いアシヨウカ大王も立たれました。 大王はけらいに向つて「誰がこの大河の水をさかさまにながれさせることのできるものがあるか」と問はれました。 けらいは皆「陛下よ、それはとても出来ないことでございます」と答へました。 ところがこの河岸の群の中にビンヅマテイーと云ふ一人のいやしい職業の女が居りました。大王の間をみんなが口々に相伝へて云つてゐるのをきいて「わたくしは自分の肉を売つて生きてゐるいやしい女である。けれども、今、私のやうないやしいものでさへできる、まことのちからの、大きいことを王様にお目にかけよう」と云ひながらまごころをこめて河にいのりました。すると、あゝ、ガンヂス河、幅一里にも近い大きな水の流れは、みんなの目の前で、たちまちたけりくるつてさかさまにながれました。 大王はこの恐ろしくうづを巻き、はげしく鳴る音のを聞いて、びつくりしてけらいに申されました。「これ、これ、どうしたのぢや。大ガンヂスがさかさまにながれるではないか」 人々は次第をくはしく申し上げました。 大王は非常に感動され、すぐにその女の処に歩いて行つて申されました。 「みんなはそちがこれをしたと申してゐるがそれはほんたうか」 女が答へました。 「はい、さやうでございます。陛下よ」 「どうしてそちのやうないやしいものにこんな力があるのか、何の力によるのか」 「陛下よ、私のこの河をさかさまにながれさせたのは、まことの力によるのでございます」 「でもそちのやうに不義で、みだらで、罪深く、ばかものを生けどつてくらしてゐるものに、どうしてまことの力があるのか」 「陛下よ、まったくおつしやるとほりでございます。わたくしは畜生同然の身分でございますが、私のやうなものにさへまことの力はこのやうにおほきくはたらきます」 「ではまことの力とはどんなものかおれのまへで話して見よ」 「陛下よ、私は私を買つて下さるお方には、おなじくつかへます。武士族の尊いお方をも、いやしい穢多をもひとしくうやまひます。ひとりをたつとびひとりをいやしみません。陛下よ、このまことのこころが今日ガンヂス河をさかさまにながれさせたわけでございます」    アショカはマウリヤ朝第三代目の王(位前二六八年頃─前二三二年頃)で、彼の下、マウリヤ朝は全盛期を迎える。彼はカリンガを征服して、全インド統一を史上初めて果たすのだが、そのときの惨状から仏教に帰依して、布教・仏典結集を援助し、慈善事業に努めている。賢治は最も「いやしい」ものが最も「尊い」のだ、もしくはビンヅマテイーがアシヨウカ大王以上の聖性を持っているという逆説を弄しているわけではない。娼婦はクシャトリヤや指定カーストの差別をせず、自分を「買つて下さるお方、おなじくつかへ」る。彼女の持つ「まことの力」は、差別の「うづを巻く」ガンヂス河流域の社会で、大いなる転倒力を発揮する。  この賢治とまったく同じ認識を展開している自然科学者がいる。その数学者は、大学教授時代に、ジーンズを履き、「非国民」を自認して、人々に「チャランポラン」や「気まぐれ」、「居なおり」、「ものぐさ」、「エエカゲン」な生き方をすすめ、「頭の間接」の「外しが専門」の「接骨院の院長先生」(天野佑吉)だ。  それは森毅である。  森毅は、『知的売春の方法』において、娼婦のモラルを比喩として、知的転倒力について次のように述べている。    けだし女衒が犯罪的なのは、みずからを体制秩序のなかに正当化しようとすることにある。貧家の子女に親孝行の道を与えるとか、国家の発展の捨石になるとか、そうしたことを言うから悪いのだ。これでは学生に、マイホーム秩序への奉仕や、企業のためのモーレツ化を、煽動しているようなものだ。彼らの出ていく世界はやはり苦界であって、正当性をもってはいけないのだ。そうした女衒は、娼婦とその売春行為を共有するよりないのだ。  そもそも大学教授などという文化人業は、元来が知的売春ではないか。現代の文化状況にあって、書斎でパイプをくゆらしながら瞑想にふけろうが、あちこち走りまわりながらおれはしがない評論家などとニヒッてみても、まあ御職と夜鷹ぐらいの違いはあるかもしれないが、いずれにしても知的売春に変わりはない。人間どうせ、身を時間売りせねば苦界は渡れぬ。「知的」を売りものにするのに何が悪い。  それても、娼婦には娼婦のモラルがある。ただし、体を売っても心は売らぬなどと言うのは、江戸時代の侍の論理を投影して精神の肉体にたいする優位性を保とうとしただけのことで、遊女の論理では談じてない。あるいは間夫の自己保身の陰謀かもしれぬ。夜ごとに変わる枕のかず、主は変われどその夜こどの主につくすのが、遊女の道ではないか。当世風に言うなら、論理的一貫性に操をたてるよりも、情況にたいして忠実であれということ。や、しかしこれは、日和見主義ということか。  自己の首尾一貫性ということなら、いかにあだし男に肌をゆるそうと、その裸の肉体はまぎれもない自分自身であって、これほど確実に首尾一貫しているものはない。だいいち、 性 交 は本質的には裸でするものだ。時代によって動揺する論理の衣装など仮象にすぎず、自己の裸の〈知〉が十分に肉体化しているなら、日和見主義のどこが悪い、女郎の誠と卵の四角、あれば晦に月が出る。遊女の目から見れば、堅気の衆の党派的誠実性などは、旦那持ちの論理に見えてくる。  旦那持ちは、とかく立場からものを見ようとする。学生の立場に立てとか、労働者の立場に立てとか、ぼくなども学生に言われることがあるものだが、教師は学生の立場に立てず、管理者は労働者の立場に立てず、男は女の立場に立てず、親は子の立場に立てず、それで小説がおもしろいのだ。そもそも立場とは、他人の立場に立とうとしても、代行主義になるぐらいが落ちで、それより自らの立場を掘りくずし、つまりは遊女に実 を落とし、裸の肉体だけに頼って世をわたる方がよい。他者の立場に立とうなどは幻想で、すでにある自己の立場を掘りくずすことだけが問題なのだ。  まして、自己の無謬性を操のあかしにするなど、つまらないことだ。とくに情況にたいして運動的有効性を持とうなどと考えているなら、その情況の悪と共存しないでは何事もなしえない。それに、どうせ情況には多かれ少なかれ体制の論理が貫徹しているものであって、そこでの反体制的媚態は免罪符と、矯風会からは非難されるものだが、なに遊女の論理としては、免罪符にならない反体制などあるものかと、すでに高をくくっているのだ。苦界に身を沈め悪魔に心を売ったからには、どうせ免罪符など信心の気休めにしかならない。熊野の鴉が何匹死のうが、知ったことか。  それでも知的売春をなりわいとするからには、情況とコミュニケートするには、この裸の自分である。この裸だけが、夜ごとの主につくすことができる。それがせめて、遊女の張りというものだ。    悲壮感漂うまでにストイックと信じられている賢治と、とらえどころのないエピキュリアンと見られている森毅を同列に論じるものは、おそらく、いないに違いない。しかし、この引用から、両者の知的転倒力は極めて近いということがわかるだろう。「決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰテ」という字句を、一般に、あまりにも無視しすぎている。『雨ニモマケズ』に限らず、初期から晩年に至るまで、賢治の多くの作品に笑いに関する記述が頻繁に見られる。どんなときでも、賢治は「イツモシヅカニワラツテ」いる。「イツモシヅカニワラツテ」いられない自らの精神の脆弱さをごまかすために、賢治を利用してはならない。  賢治にしても、森毅にしても、売春制度を認めているわけではない。売春は娼婦だけで成り立たない。彼らは売春を比喩的に使い、娼婦に対する差別を無化しているだけでなく、実際の売春制度を不愉快に感じている。と言うのも、「女衒」と買春者はいつも「みずからを体制秩序のなかに正当化しようとする」からである。  独自の造語と独特の文法構造で文章を書きつづる棟方志功は、『板極道』において、『雨ニモマケズ』をモチーフにした版画を彫ると、必ずどこか失敗すると次のように回想している。    宮沢賢治の「……雨ニモマケズ 風ニモマケズ……」など、こうした文学を傍にした板画もつくりました。  これは「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」を一図、「東ニ病気ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ」が一図組になって『不来方板画』の棚となったのです。  この詩を彫ると、どこかを間違えるか、忘れるか、字が一ツ欠けたりするので、不思議です。なんべん彫ってもそうなるので困ってしまいました。それが、今でもそうなんですが、ますますもって不思議千万なのです。これは永遠の間違いとでもいうのでしょうか、いまだに完全無欠にされていない仕事だと思って諦めています。「ソシテワスレズ」を忘れたのもあります。    棟方志功は『雨ニモマケズ』を「完全無欠」に体現している。『雨ニモマケズ』自体「永遠の間違い」を含んだ「完全無欠にされていない仕事」である。賢治が当てられた罰は神から下された罰ではない。それは犯した罪とひきかえの罰でも、既存秩序に対する反抗が生み出す罰でもなく、「永遠の間違い」のような罪なき罰だ。人間が自分自身として生きようとするとき、生じてくるどうしようもないまでの矛盾、それが賢治の当てられた罰である。  安吾は、『ピエロ伝導者』において、賢治の言う「デクノボー」を「竹竿を振り廻す男」として次のように述べている。    空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。  屋根の上で、竹竿を振り廻す男がいる。みんなゲラゲラ笑ってそれを眺めている。子供達まであいつは気違いだね、などと言う。僕も思う。これは笑わない奴の方が、よっぽどどうかしている、と。そして我々は、痛快に彼と竹竿を、笑殺しようではないか!  しかし君の心は言いはしないか? 竹竿を振り廻しても所詮はとどかないのだから、だから僕は振り廻す愚をしないのだ、と。もしそうとすれば、それはあきらめているだけの話だ。君は決して星が欲しくないわけではない。しかし僕は、そういう反省を君に要求しようと思わない。又、「大人」になって、人に笑われずに人を笑うことが、君をそんなに偉くするだろうか? なぞとききはしない。その質問は君を不愉快にし、又もし君が、考え深い感傷家なら、自分の身の上を思いやって悲しみを深めるに違いないから。  僕は礼儀を守ろう! 僕等の聖地に曰く、およそイエス・ノオをたずねべからず、そは本能の犯す最大の悪徳なればなり、と。又曰く、およそイエス・ノオをたずねべからず。犬は吠ゆ、これは悲しむべし、人は吠えず、吠ゆべきか、吠えざるべきかに迷い、迷いて吠えず、故に甚しく人なり、と。  竹竿を振り廻す男よ、君はただ常に笑われてい給え。決して見物に向って、「君達の心にきいてみろ!」と叫んではならない。「笑い」のねうちを安く見積り給うな。笑い声は、音響としては騒々しいものであるけれど、人生の流れの上では、ただ静寂な跫音である時がある。竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない。そして、それをしないために、君の芸術は、一段と高尚な、そして静かなものになる。  勇敢に屋根へ這い登れ! 竹竿を振り廻し給え。観衆の涙に媚び給うな。彼等から、それは芸術ではない、ファースであると嘲笑されることを欣快とし給え。しかしひねくれた道化者になり給うな。寄席芸人の卑屈さを学び給うな。わずかな衒学をふりかざして、「笑う君達を省みよ」と言い給うな。見給え。竹竿を振り廻す莫迦が、「汝等を見よ!」と叫んだとすれば、おかしいではないか。それは君自身をあさましくするだけである。すべからく「大人」になろうとする心を忘れ給え。  忘れな草の花を御存じ? あれは心を持たない。しかし或日、恋に悩む一人の麗人を慰めたことを御存じ?  蛙飛び込む水の音を御存じ?  安吾は偉大である。彼の言葉を読めば読むほど、賢治の作品をより理解できるようになる。「デクノボー」は人に笑われることによって、制度を笑い飛ばすことを可能にする。賢治はその矛盾に対してユーモアをもって笑う。ウォルター・リードに黄熱病の防除手段のヒントを告げたのは狂人と見なされていたカルロス・フィンレーだ。ユーモアは精神の健康的な態度であるが、賢治の言う「丈夫」とは健康ということである。健康は健全とは違う。健全は不健康である。外部を排除する健全は脆弱さの現われである。毒が入ってこないようにすることが健全であり、毒を自己自身によって解毒してしまうことが健康だ。健全は潔癖症という病である。いかなる病を飲みこんでしまう強度を持っていることが健康だ。たんに飲みこむだけでなく、十分に租借すればなおよい。よく噛み、唾液をよく流して、食べないと消化不良を起こしやすい。「玄米」はよく噛まないと食べにくい。「丈夫」な胃袋には「丈夫」な歯が不可欠だ。たとえ 副食が「味噌ト少シノ野菜」だとしても、「一日ニ玄米四合」は決して少ない量ではない。実際、『雨ニモマケズ』が戦時中から終戦直後の小学校の教科書の教材に採用された際、ここは文部省の命令によって「三合」に修正されている。平安時代の貴族の一日の食事は玄米四合くらいであり、賢治は科学的に一日の必要摂取量を把握していたと推測できる。病になるのは簡単なことであるが、健康であることは極めて困難である。健康への意志が芸術を創造する。いかなるものにも「マケヌ丈夫」さを持つことが健康である。  そうした認識を忘れてしまったとき、「芸術はいまわれらを離れわびしく然も堕落」するのであり、そんな「職業芸術家は一度亡びなければならぬ」(『農民芸術概論』)。人生には何が起こるかわからない。しかし、人間は、たとえ罰がくだされたとしても、とにもかくにも生きていく、自分自身はかけがえのない人間であり、死ねばなくなってしまう以上、自分の人生を精一杯よりよく生きるために考える必要がある。賢治は、たとえ罰の下にあったとしても、このよりよく生きるという認識を手放すことはない。それは「永久の未完成これ完成である」(同)というような一つの成熟、すなわち子供の成熟である。賢治の作品は読み手にそうした認識を喚起させる。「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ ああそんなに かなしく眼をそらしてはいけない」(『無声慟哭』)。『雨ニモマケズ』が今日においても比類のない魅力を放つのは、賢治が 、生きることによって、見つめなければならなかった罰を描いている作品であるからにほかならない。  〈了〉 参考文献 『宮沢賢治全集』全9巻、ちくま文庫、1986〜95年 『ザ・賢治─宮沢賢治全一冊』、第三書館、1985年 『近代作家研究叢書9』、日本図書センター、1983年 『近代作家研究叢書30』、日本図書センター、1984年  『近代作家研究叢書43』、日本図書センター、1984年 小倉豊文、『「雨ニモマケズ手帳」新考─増訂宮沢賢治の手帳研究』、東京創元社、1978年 柄谷行人、『批評とポスト・モダン』、福武文庫、1989年 坂口安吾、『坂口安吾全集』14〜18、ちくま文庫、1990〜91年 高村光太郎、『高村光太郎詩集』、岩波文庫、1,981年 谷川徹三、『雨ニモマケズ』、講談社学術文庫、1979年 玉木正之、『定本・長嶋茂雄』、文春文庫、1993年 中村稔、『宮沢賢治』、筑摩書房、1972年 堀田彰、『エピクロスとストア』、清水書院、1989年 森毅、『あたまをオシャレに』、ちくま文庫、1994年 森毅、『ものぐさのすすめ』、ちくま文庫、1994年 棟方志功、『板極道』、中公文庫、1976年 吉田和明、『宮沢賢治』、現代書館、1,992年 吉本隆明、『悲劇の解読』、ちくま学芸文庫、1997年 エピクロス、『エピクロス―教説と手紙』 出隆他訳、岩波文庫、1959年  スタンダール、『スタンダール全集』10、人文書院、1978年 フランソワ・ドラポルト、『黄熱の歴史―熱帯医学の誕生』、池田和彦訳、みすず書房、1993年  フリードリヒ・ニーチェ、『この人を見よ』、手塚富雄訳、岩波文庫、1969年 フリードリヒ。ニーチェ、『ニーチェ全集』9・10、ちくま学芸文庫、1993年 S・フロイト、『フロイト著作集』3、高橋義孝訳、人文書院、1969年 |